2010年2月9日火曜日

【号外】

■壊れた十年

去年の12月にサンチャンでDJしたとき、バーでオレに向かって「半蔵さんて、HOUSEFORCEですよね?」と喋りかけてきた奴がいて、ええ今更?!ってなって話をした(わからない方は流して下さい)。振られた話に何気なく答えたら奴は深く考え込んでしまったので、しまったと思い、その後は言葉を選んで喋った。その時期オレはアシッドハウス熱に猛烈にやられてたのだけれど、オレのDJ中からそいつの動きが激しくなってきて、その後はブースにぶつかりまくりやがって、迷惑な奴やと思った。店のヒゲのスタッフがうまく対応してくれた。でもオレがもっと暖かい音をかけてたらそうはならなかったのに、って実際思った位、素直さも感じた。
そいつのあまり良くない評判は聞いてたけど、実際それがそいつと知ったのは後になってからだった。同じ空間にいた事は何度もあったみたいだけれど、向きあって喋ったのはその時だけだった。今日起きてPC開けたら友人の日記でそいつが自殺をしたと知った。

先週末、「ゼロ年代の音楽 壊れた十年」を読みながら京都の兄貴のところに散髪に行った、はずなのにちょっとしたミーティングが始まり喋りまくった。美容師とDJ兼パーティーオーガナイザーとの職人同盟、お互いの今後の展開について、ちっちゃな話ではなく、おっきな話なんかないの?っていう話。
ふたりともおっきな話の行先は「社会貢献がしたいねん!!」という所だった。気がつけば店に来てから2時間以上経っていて、そろそろ髪切らないと終電間に合わない、って事でやっと散髪が始まった。外は吹雪いてたけれど、だいぶホットな店内だった。出来上がった髪型は非常に気に入っている。

何が言いたいのかというと、小泉以降確実に分断されて壊れた社会を、自分らの手で取り戻したい、ということだ。ミーティングポイントの役割は重要だけれど、行政とか体制側にそれを期待するよりも、自分らの手でそれを作った方が早く、機能的だと思う。言葉でいうほど簡単じゃないし、もちろん世の中全ての人に対してなんてとても出来ないけれども、自分の手の届く範囲でなんとかしたいと真剣に思う。それをやりながら、手法だけ公開するから後は自分らでやってくれ、と思う。ジャンル問わずそういう人達の連帯が無ければ、個の力だけではどうしようもならないところに今の社会は追い詰められていて、みんながしんどい。だから考えるのを放棄して、もしくは誘導された枠組みの中でしか考える力を持てず、挙句の果てに、何でも死刑にしてしまえ!という民意が増えてしまうのだと感じる。(死刑容認、過去最高の85・6%… 内閣府調査 読売新聞 - 02月06日 18:29)

でもそれじゃダメだ!ってのが、今の自分のモチベーションです。
参考リンク

そんな事も考えつつ、、

「踊ることは瞑想することだ。なぜなら、宇宙は踊っているからだ。そして、宇宙が踊っているのだから、踊らないものには、何が起こっているのかわからないのだ」

■Social Infection presents 地下茎210 at NOON ■
  --- with HAMASTAR SOUND SYSTEM ---

2010年2月2日火曜日

SUPPORT YOUR LOCAL vol.2 JFD-003.3

 
■■■DJオーディション

90年代の頭に京都の祇園のはずれにGARDENてなかなかいいクラブがあって、そこでDJオーディションって企画があった(2回あったような気が)。田舎から出てきてクラブに遊びに行くようになり、DJに興味を抱いていたオレはこれはチャンス!とばかりにデモテープを送った。そしてカセットテープを送りつけた6人がとある金曜日に呼ばれて、店は1500円/1Dで通常通り営業。今思えば無茶な企画である。1人30分くらいずつDJして、上位3人は3ヶ月間、月イチ月曜日に枠をもらえる。オレは燃えた。

どうやって順番が決まったのかは覚えてないけど、その日のトップバッターだった彼の顔は以前から知っていて、なんでキヒラさんと一緒にDJやったりしてる人がこんなとこ来てんの?って思ってた。でも、バレアリックというか、彼のDJでフロアは暖かい感じで良かったし、オレも踊った。で、当時、自分はまだそれほど好きじゃなかったNYハウス系のDJが2人目から5人目まで続いて、結局5人目終了まで2人目からひとりもフロアに人が出て来ないという、当時まだクラブも行き始めたばかりであまりよくわかってないオレでもさすがに・・・っていう激寒な展開、さあ、困った。『人前で初めてのDJなんだよなー、一応持っては来たけれど、こーれかけるのは勇気がいるなあ。でもフロアずっとこれやもんなあ・・』と、緊張感マックス(オレもフロアも)のなか、イチかバチかでかけた曲。恥ずかしい思い出だ。でも当時、この時のイロモノDJっていうレッテルを覆す!っていうのがそれ以降しばらくの間自分のモチベーションにあったような気がする。まあさておき、これが項を奏してフロアの緊張がとけ、その後は、その頃大好きだったtower of powerとかホーンセクションが効いてベースがファンキーなんとか、talkin' loudらへんを気持ちよくかけれたのを覚えてる。

店でレギュラー持ってるDJの大先輩方が審査して、1位、トップバッターだったTENちゃん(文句なし)、2位にめでたくオレ入賞、で、3位がNYハウス勢の中で、あ、この人のんは好きかもって思った彼、この3人で月曜日の枠を勝ち取った(自分の記憶では3位だったとずっと思っていたんだけれど、昔のスケジュールひっぱり出してみたら2位って書いてあった。)

TENちゃんの家にはよくフライヤーを作りに行った。モノクロで映える写真を探し、いろんなフォントで英数字が載ってるタイポグラフィーの本を彼は持っていたので、それをローソンで何種類かコピーして、それを1字1字ならべて貼ってクレジットを作る。で、コピーして影の出てるところをホワイトして…非常に手間のかかる作業だった。そんな時代。でも、それが良かった。
記念すべき最初のフライヤーは今でも大事にしている。その後もしばらくTENちゃんとは別の箱で一緒にパーティーをする仲だった。そこが京都のMushroomだった。オレが毎回キメにかける曲が同じでヤダとケンカもしたが。彼はその後CISCO大阪から渋谷へ。現在はWOMBのSTERNE(ご存知石野卓球のパーティー)のレジデントや、昨年からERRって野外のパーティーも仕掛けている。

                     当時のフライヤー

SUPPORT YOUR LOCAL vol.2 JFD-003.2

 
■■上田Loft

大阪で年越しのカウントダウンパーティーの撤収を終えてから551の肉まんを手土産に信州の実家へと電車に乗った。20代の頃はほとんど帰らなかった。2、3年前に帰った時、地元の上田駅を降り目に入ってきた看板で、オレの実家のある真田町も含め、まわりの町が合併された事を知った。ライトアップされた駅前からの通りは電柱が地中に埋められ整備されて空が開け、オレらの頃からさびれていたスーパー跡地には高層マンションが建った。けれども自家製の野沢菜漬けと、さすがといわれる上田のりんごの味は相変わらずだ。

冬のコタツでりんごを食べていた小学生の頃から、漠然と高校を卒業したら東京に行くと思っていた。その頃は東京まで特急で3時間くらいはかかったと記憶しているが、新幹線が出来て今ではたったの1時間半、しかし新幹線の下を走る軽井沢~篠ノ井間の在来線はJRから切り離され民間経営の『しなの鉄道』となり、値上がりした。長距離移動者の利便性は上がったが、地元民の足としては痛い五輪効果だった。とはいえ元々車が無いと話にならない山に囲まれたオレの故郷のまわりは、今では山間をトンネルでまっすぐつなぐ高速道路が整備され、高速通勤をしているという便りを高校の同級生からもらったし、市街地でも駐車場がないと店として生き残れないという話も母親から聞いていた。
久しぶりに乗ったしなの鉄道、ドアが手動なのを忘れていた。寒冷地仕様なのだ。

10代の多感な時期はバブル真っ只中の時代だった。小学校から帰るとTVの前にテレコを準備し、7時前からまわりに静かにしてもらってアニメの主題歌が始まったら録音と再生ボタンを一緒に押していた。そんな時に限って父親が「ただいまー」と帰って来たりするのだけれど。中学の頃、たまたまNHK-FMのリクエストアワーで流れてきた『No End Summer』という曲に衝撃を感じ、海の無い長野の山奥で、海辺のドライブをイメージするような曲ばかり好んでひとりで聴くようになった。とはいっても長野では中学まで民放のTVチャンネルは2つしかなく、FMもNHKだけ。何もなかった。高校時代にジャージ姿で初めて行ったコンサートでスクラッチを見て、家にあった親父のレコードプレーヤーで試してみたが出来るはずもなかった。

同時にその頃、遅れてきたDCブランドブームにもヤラれ、ファッション雑誌を読みあさり自分のセンスを磨いてるつもりだった。都会へと続くレールの先には輝かしい未来が待っているというgold digger気取りの井の中の蛙、イコールダサイ田舎者だった。勉強したいのではなく、都会で黒い家具に囲まれて一人暮らしがしたかった。しかしそこでレールは終わっていて、そのまま真っ暗な谷底へ放り出されることとなった。time to lose control...

谷底で残念ながらサーフィンや刺青には興味を示さなかったが、テクノやハウスミュージックといったDJ&CLUB CULTUREに出会えてラッキーだった。その頃はまだ文化とは呼べないが、何か新しい物事が始まるときのエネルギーに魅せられた。初めにジャックありき。そしてジャックはグルーブを産んだ。オーマイガッ!イッツ TECHNO ミュージック!!その中心は93年から3年続いた京都のMushroomという店だった。大学をドロップアウトしてDJをしているという息子を心配して、親父が店に来たことがあった。天井が低くスモークを炊きすぎる癖があったその店で親父は「換気が悪い」と言ってすぐ帰った。それから何件もの店が潰れたけれど、やってることは基本変わらずネバーストップで、あれから20年近くが経とうとしている。ただ長くやればいいってもんでもないが、それでも20年続けばそれはもう文化といっていいんじゃないかと近所の誰かも言っていた。

地元の話に戻るが、上田は合併されたといっても人口たったの16万、典型的な田舎の地方都市だ。そんな街に7年前からクラブがある。あるのは知っていたが、今回ひょんな事から誘いを頂いた。まったく、人の縁とはつくづく不思議だ。

上田Loft。その強気な名前は伊達ではなかった。DJブースは作りと配線がしっかりしていて、ソファーもあるくらい広くとられている。四隅のスピーカーからは重心低めで太く厚みのある音が鳴り、フロアでは気持ちよく体が動くので、年末からの疲労と寒さでこわばっていた体をほぐした。見上げるとミラーボール、ノッてくると天井付近からスモークが出てきて、気の利いた奴がフロアの入り口のカーテンを閉め、密室状態の中ストロボとパーライトが点滅を始める。260万人が住む大阪でもなかなか無いレベルで、音響照明飲み物や逃げ場に到るまで細かな配慮を感じる店だった。好きじゃなきゃ無理なレベル。好きでも知識と経験とある程度まとまったカネがないとあそこまで出来ないレベル。正直驚いた。

「店の若いDJ達にはみな照明もさわらす、そうすると曲を覚える。」と言っていた店のオーナー兼DJである内川さんは、オレのDJオーディションの時の審査員のひとりで、その頃から彼は年がひとまわり上で隣の高校出身の同郷の先輩というのは知ってはいたが、キャリアが違いすぎて当時は気安く喋れるような存在ではなかった。店には彼が海外で買い付けてきた中古レコードも置いていた。グラウンドビート系のセレクションが渋い。

地元にクラブがある事は、オレからすれば単純に嬉しいけれど、地方のただでさえ人口の少ない場所で、信念を持ってやり続けることは相当大変だろう。けれど、音楽やパーティーつながりで出会う人たちとの居心地の良さに都会や地方の差はない。岐阜EMERALDAしかり、米子Breaksしかり。むしろ最近は地方での集まりの方が、人数は少なくとも余計なものもない分ピュアでハングリーなエネルギーを都会よりも感じる。実際この日も上田Loftで、個人的にこの冬イチオシのレコードをかけた時、すぐさま若いDJがブースに飛び込んできて、「僕もこの曲メチャ好きなんですよ!でもこんな風にかけれないんですよねー」というやりとりをした。離れた場所の見知らぬ人を自分の好きな音楽がつないでくれる。嬉しくて、感謝したくなる瞬間だ。他にも地元の連中からいろんなフィードバックがあった。と同時に、幼少期から知らぬ間に持ち続けていた都会幻想は完全に消え去った。都会には都会ならではの醍醐味がもちろんあるけれど、良いものに都会も地方も関係ない。no border under a groove!
この10年で音楽をとりまく状況には急激な変化が訪れた。respect the old, appreciate the new.
そしてそれは音楽だけでなく、社会全体にも変化の大きな波が、静かに確実にやって来ている。オレはそう感じる。そしてそれを歓迎している。楽しむことを続け、より良い楽しみにつなげようと画策中だ。楽な状況ではないけれど、悲観的でもない。当時はそこかしこでかかっていたためtoo muchになり売ってしまったのだが、やっぱり好きだと上田Loftで買い直したレコードはこう歌っている。
have to survive, have to stay alive, livin' in the light.


上田Loft - myspace

2010年2月1日月曜日

SUPPORT YOUR LOCAL vol.2 JFD-003.1

 
■超越音狂(ちょうえつおんきょう)@米子Breaks

年も押し迫る寒空の中、楽しげな匂いを察知した我々はノーマルタイヤのレンタカーに乗り込み米子Breaksへ向かった。超越音狂というパーティーの前に松江在住の古い音モダチと合流、出雲で瓦そばと温泉。出雲の国というだけあって、うごめく雲と満月に目を奪われながらの露天はこれぞ最高。パーティーと温泉のセットはとても贅沢な気分で、体も心もほぐれる。その後松江に戻り、支度して米子へ車で30分ちょっと。前日福山でDJしてた京都の友人を呼び出し、現地で合流することに。彼は米子駅まで電車で、そこからタクシーの運ちゃんにBreaksの住所を伝え乗車したものの、運ちゃん見事に迷子。それもそのはず、Breaksは田舎道にぽつんと建つ元パチンコ屋をクラブスペースに改造した箱で、運ちゃんはその事を知る由もなかったのだ。

結構な広さで、パチスロコーナー跡がダンスフロアとバー、パチンココーナー跡がチルスペースといった感じ。メインのスピーカーはどうやら自作で天井まで積み上げられ、さらにこの日はオーガナイザー自前のマスターブラスターが追加されていた。上半身裸はもちろん、Eとペイントされた唐笠を被った男や、松葉杖持って駆けつけた人がフロアにいたり、車椅子で来ている人がいたのだが次に目撃したのはブースに入ってマイクを持っている姿だった。そういえば以前レコード屋勤務時代に来たシカゴ帰りの客から、Paul JohnsonのDJ話を聞いたことがあるが、実際目撃したのは初めて。店内に描かれているペイントなんかを見ても、なかなか元気な連中が集まる場所っぽい。松江の音モダチ曰く、山陰は変態が多いのだそうだ。この日の集まりをみるとうなずける。変態つながりの神戸、大阪、京都、岡山、愛媛人をこの日確認。都会のパーティーと比べても、集まる人の元気さ、エネルギーはかなりの感じだ。深夜の更に深い時間になっても続々と女子らが入ってくるので、気になってバーにいたとてもいい顔をした兄さんに話かけてみる。いるだけで安心出来てしまう柔らかなオーラをまとった笑顔の彼がどうやらオーナーらしい。米子の酒場の営業明けの人達や、近所の温泉街の旅館の若女将なんかが来ていたようだ。

米子Breaks、もう8年になるそう。パーティーオーガナイザーから受けたテキーラと、京都から来てた音モダチからの朝方のダメ押しで潰れてしまったので、リベンジに行きたい。帰りは強烈な冬将軍で死ぬかと思った。冬の米子道、スタッドレスとチェーンを忘れずに。蒜山SAはマストですが、もひとつ米子寄り、地味な大山PAのしじみご飯350円がとても旨かった。晴れていれば景色も最高なはず!

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